SSAに向けて緊張が高まっています。
卒業企画には私も協力します。白サイリウムを持参します。
でも卒業企画のバナーを自分のブログに貼ろうとすると手が止まります。貼りたくない、貼れない、という気持ちになります。
なぜなんだ?
私はなぜためらっているんだ?
バナーを見るたびに感じる微妙な違和感。
このモヤモヤを言語化したくてここ数日ずっと考えていました。
きょうは私が卒業企画のバナーを貼れないと感じた理由について書きます。
企画の内容とかそういうことではなくて、あくまでも「バナー」を見て思ったことです。
「吉澤ひとみ卒業企画 5月6日SSA夜公演は白サイリウム」
「吉澤ひとみ卒業企画(数本の白サイリウムの画像・アニメ)」
「サイリウムは『白』 吉澤ひとみ卒業企画」
用意されたバナーは上記の要素で構成されています。
ちなみに、企画のトップページには、卒業企画とは別の2つの賛同企画のバナーがあります。賛同企画のバナーにはこう書いてあります。
「吉澤ひとみさん 祝 卒業メッセージ」
「よっすぃー Birthday Project 22」
賛同企画のバナーは、企画のタイトルだけがあり、それがどのような企画であるか、内容までは触れていません。そしてそのことに特に不満も違和感も感じません。クリックすればわかることだからです。それに対して卒業企画のバナーは「白サイリウム」という企画の内容が必ず盛り込まれています。
賛同企画バナーと卒業企画バナーを比べた時、私は自分の感じた違和感の理由のひとつがわかりました。卒業企画のバナーは次元の異なる情報が混在しているため、見る者に負担を強いるのです。
どういうことか、説明します。
「吉澤ひとみ卒業企画」という企画タイトルが本の表紙とすれば、「白サイリウム」という企画の内容は本の中身、目次や本文にあたることです。このバナーを見たとき私が感じた違和感は、本の表紙に本文が流れ込んでいるような困惑でした。
次元の異なる情報が並列に、あるいは、バナーによっては本文であるべきものが逆にタイトルより大きく扱われているので私は一瞬、戸惑ったのです。
つまり、「企画の告知」と「企画内容の告知」が混在してるんですね。
次元の違う情報をいっぺんに見せられると、見る者は困惑と負担を感じます。
もし、卒業企画のバナーが賛同企画のように情報の優先順位をつけて、
「吉澤ひとみ 卒業企画」「よっすぃ卒業おめでとう」
という表紙の要素だけだったらずいぶん印象が違ったのではないかと思いました。
今私が書いているのは「次元の違う情報が混在してることへの違和感」であって「白サイリウムへの違和感」ではありません。
(私は白サイリウムに反対しているわけではありません。)
さらに考えてみました。
情報が混在していても、負担にならないことだってあるのではないか?
情報量が多くても、ひとめで必要なことがわかって「便利でよかった」と思えることもあるのではないか? おそらくこのバナーの意図もそうなのだと思います。でも、私は「便利でよかった」と感じませんでした。
なぜ、このバナーでは「便利でよかった」という気持ちにならないのか?
情報の質が「告知」なのか「依頼」なのか、ということに関係あると思いました。
「吉澤ひとみ卒業企画」という情報は「告知」です。そういう企画がある、と知ってもらうことが目的です。では「白サイリウム」という情報はどうでしょうか?
「白サイリウム」という情報は「依頼」です。「告知」ではありません。なぜかと言うと「卒企画は白サイ」と知ってもらうことで完結するのではないからです。知ってもらって、そのうえで当日、手に持ち、点灯するという行動をしてもらうことまでが目的です。そういう意味で「白サイリウム」という情報は「告知」ではなく「依頼」なのです。
情報が「告知」であれば、つまり、知ることで完結する情報であれば、多少情報が混在していても「便利でよかった」と思えることはあるのですが、これこれをしてくれ、という依頼は、やはり、いきなり言われると「え?」と感じます。
告知と依頼という情報の性質として大きく異なるものが並んでいることでこのバナーは損をしていると感じました。
「依頼」と「告知」が区別されていない。
それはどういうことかと言うと「決まったからやって」という雑な印象を相手に与えてしまうということです。送り手の意図はそうではないにも関わらず。企画決定にきちんとしたプロセスを経ていることはもちろん私も知っています。だからこそ残念です。
みんなに協力してもらいたい、と急ぐあまり、このバナーは損をしているんだなぁと思いました。
依頼というのは他者の反応と行動を求める行為です。他者の反応と行動を性急に求めてしまうメンタリティ、また、狭い面積の中でコミュニケーションを成り立たせようとして文字を放つメンタリティはスケブ感覚に近いものがあるような気もしました。
私が卒業企画バナーを見るたびに感じた違和感の原因をまとめると、こうです。
次元の違う情報の混在。(表紙に本文が流れ込んでいるような)
性質の違う情報の混同。(告知と依頼が区別されていない)
それらによる違和感。
以上が、私が卒業企画のバナーについて感じたことです。
バナーについて何日も考えてしまう私も相当どうかしています。自分はもしかしたらバナーヲタなのではないか、と思うほど考えました。もちろん、バナーに問題があるわけではありません。きちんと機能していると思います。たまたま、私がふと立ち止まってしまって根掘り葉掘り考えてしまったというだけです。バナーにとってこんなに災難なことはありません。
違和感を感じようがどうだろうが、吉ヲタならバーンと貼っとけ、という考え方もあるし、そのように行動されている方もいらっしゃるかもしれません。何度も書きますが、私は企画に反対してるわけではありません。批判やその他の目的のために書いたのではありません。細麺のラーメン屋に行って、「ああ俺は太麺が好きだな」と思ったというのと同じです。自分の味の好みを再確認した、という以上の意味はありません。自分のモヤモヤとした違和感が何だったのか言語化したかっただけであることを再度書き添えて締めくくりとさせていただきます。