BLTの吉澤を見た。
別レイヤーにいる感じがする。何かが現れる寸前の感じ。
これは紅白の直前に撮られたものだよね。
綺麗だな。造作だけじゃなくて。内側からにじむものがある。見飽きない。
10月の武道館
I wrote;あとさぁ、「歩いてる」の前の間って何だったんだろう。
11月スフィアFINAL有明
I wrote;あの静けさ。あれはなんなんだろう。考えてもわからないけど。
12月、カレー千秋楽、名古屋
I wrote;たとえば吉澤が紅白出場の報告をするときの表情に。「また来年もみんなで」と言うときの声の震えに。続くことの大切さ、すごさ、儚さ、恐れ、意思、希望、渇望。
12月、ラジオ「ON8」
「前代未聞のおんな」。未来像。
正月のハロコンについて聞かれて、やたらとテンション高く大きな声で「すっごい楽しいと思いますよ」と言っていた吉澤。
紅白でも、なんか違うな、静かだけど、やわらかくて、軽くないけどイヤな重さではなくて、一体これは何だろう、吉澤から出ているものは、と思っていたんだ。なんでそんなに、やさしそうな、いとおしそうな目をするんだろうって。
振り返れば、いっぱい感じてたんじゃん、俺。
なのに「何だろう」とかで思考を終わらせていた。潜在意識で拒否してた。
でも。
BLTを見て、卒業へ向かっていく吉澤の意思を感じた。
気持ちの線、動きのある線を感じた。
覚悟+決意−リキみ。キリッとしているのに閉じてない。開いている。
吉澤は未来を待っている。追いかけるっていうより、迎え入れる、来るのを待ってる顔だと思った。
下の日記「半病人」のコメントでもふれた本から引用。
<待つ>は偶然を当てにすることではない。何かが訪れるのをただ受け身で待つということでもない。予感とか予兆をたよりに、何かを先に取りにゆくというのではさらさらない。ただし、そこには偶然に期待するものはある。あるからこそ、なんの予兆も予感もないところで、それでもみずからを開いたままにしておこうとするのだ。その意味で<待つ>は、いまここでの解決を断念したひとに残された乏しい行為であるが、そこにこの世への信頼の最後のひとかけらがなければ、きっと、待つことすらできない。
(『「待つ」ということ』より)
解決を断念したひとの乏しい行為。信頼の最後のひとかけら。
私は大阪公演での吉澤さんを思った。
考えたら、私たちはたいてい、いつも何かを待ってる。
電車、電話、メール、会議、資料、ライブの開場、開演、宅配便、注文した食事、洗濯物が乾くこと。
人生っつーのは待つことのつながりでできている。止まらなければ。
止まってしまえば、つまり、未来を放棄してしまえば、待つこともなくなる。
未来というものが線の先にある、線の先に行くんだ、と思うからこそ、待つ、わけだ。
吉澤さんはあの日、大阪公演の日、立ち止まることを選ばなかった。
未来を待つことを選んだ、と言えるかもしれない。
そして、待つために必要な「信頼の最後のひとかけら」を、吉澤さんは、そこにいる人いない人含めて、有形無形の声援を送る「ファン」に求めたのではないか。
ステージに立つということが、責任感という外向きの理由だけでなく、
吉澤さんの内側にとっても必要なことであったなら、こんなにうれしいことはない。
ファンを信頼してくれたのなら、こんなにうれしいことはない。
いや、わからないんだけどさ。
勝手な解釈でしかない。
でも、義務感だけじゃないと思うんだ。なんか、あったと思うんだ。もっとやわらかくて、綺麗なものが。
明日の横浜アリーナの前にそれをちょっと書いておきたくて書きました。