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こーの支配からの卒業♪
って歌が浮かびましたw
でも実際あんま変わらないよな。予想された事態だしね。
後からじんわりくるかもしれないけど。
このあとは個人別のFCができるのだろうか?
それはきっと俺らにとって新しい支配の始まりな予感。
音楽ガッタスのエッグのコたちの宙ぶらりんさに泣ける。
かわいそすぎ。
大量卒業以降のハロコンで歌うとしたら「音楽ガッタス☆エッグ」みたいな名前で歌うのかな。
フットサルと縁の薄いコたちだけで歌う時もガッタスって名乗るっていうもうツッコミたくないんだけど
どうしてもツッコんでしまうというナンシー関における川島なお美のような俺と音楽ガッタス。
で、えーーっと、サイリウムは何色に?
・・・・・・・。
なんて斜に構えた口調で書いてしまったが、俺横アリに行くとしたら
今回だけはよしざーよりも中澤さんをガン見する。
中澤さんを見る吉澤を見ながら。(結局見るんじゃん吉澤w)
いや、あの、まじめな話、中澤さんのための場になるといいなと、うまく説明できないけど、思いました。たくさんのキーパーソンがいるのはわかったうえで、あえて。
あぁ、HAのアルバム発売までずーーーーーーっと熱病のようにHAのことだけ
書いていくつもりだったのに。
「『普通』に憧れてた」という後藤の言葉が「『普通』はあきらめた」に聴こえた。
「後藤真希 OFFICIAL WEBSITE」の「ドキュメントムービー」インタビューのハナシ。
だからって開き直ってドンと構えているかっていうとそうでもなくて、
落ち着いて応対している風な打ち合わせの場でも、不安が見え隠れしている。
「信用してます」じゃなくて「信用したいんですよね、人を」。
後藤の心細さとポジティブネスが表れたひとことだと思った。
「曲のテーマは『リアル』と『アンリアル』」。
SWEETとBLACKという相反するニュアンスの言葉をつないだプロジェクト名もそうだし、強さと弱さ、特別と普通、自立と依存、希望と不安、誰でも持ってる二面性、いや、20代女のコ特有の二面性みたいなものに作り手は着目しているのだろう。PVでも二面性は強調されている。ナチュラルメイクの後藤とそうでない後藤、歌い方、夢と現実。夢は悪夢か幻想か想像力か。紙に書かれたコンセプトに血液を流れさせることが後藤真希に期待されている。
マキゴトーのリアルもアンリアルも所詮は作られたものだけど、そーゆー期待のされ方は悪くないなと思ったよ。
「わたしにとっての自然ってなんだろうなぁっていう・・・常になんかこう、ニヤけてるというか・・・笑ってるとは違うか、ニヤけてる感じ」
ここすげーいいと思った。ニヤけてる感じw
戦略としての「リアル」と「アンリアル」をニヤけながらつないで、切り抜けて、離陸して欲しい。
二面性、相反する概念、ということを考えていたら、もうひとりの人が思い浮かんだ。
加護さん。
「子供でもないし、大人でもないなと自分で思ってる。すごく今、アンバランスなんですよ。」
これは12月8日の毎日新聞のサイトに載ってたインタビューのコピペだ。こういうことを加護さんは
何回か言ってる。加護さんのなかでは区切りとして「子供と大人」というのが大きいらしい。
似た区切りとして「未成年と成年」というのがある。
「未成年と成年」「子供と大人」はぜんぜん違うことだ。加護さんはそこを混同してるような気がする。
wiki丸写しでいくけど、未成年とは何か?というと成年に達していない者。
成年とは何か?というと単独で法律行為を行えるようになる年齢。
つまり、未成年か成年かは法律が決めること。法律による年齢の区切りにすぎない。日本では20歳だけど国によってその年齢は異なる。もちろん喫煙OKの年齢も。
じゃあ、子供とは何か?というとこれまたwikiによれば
「何歳までが「子供」とするかについては、子供観での慣習あるいは法制などで異なる」とのこと。
子供観での慣習、というと、つまり、いろんな見方があるってことで、単純に年齢で区切れないってことだ。
たとえばアリエスの『子供の誕生』によれば、中世ヨーロッパには現在のような「子供」という概念はなく、7歳ぐらいで一人前の人間、つまり「大人」として扱われたとある。労働し、飲酒も恋愛も自由で、年齢の若い者は、小さな大人、不完全な大人、ととらえられていただけだと。現在のような「大人」と別の「子供」という概念が生まれたのは近代になってから。産業が変化し、仕事と家族の形と意識が変化し、「子供」を「大人」と分離して「教育する」というシステムが生まれてからだと。つい最近、ここ3、4百年のことなんだよね。
そういう意味で。
中世ヨーロッパ的な意味で。
加護さんはずっと大人だったんだと思う。
問題は、加護さんが「かつて自分は子供だった」と思っていることだ。
加護さんの勘違いのいちばんの根っこはここだと思う。
加護さんは未成年だったけど、子供ではなかった。
あなたはずーっと大人だったんだよ、と言ってあげたい。
今も昔も、ただ、不完全な大人。
そしてこころの奥底、潜在意識では加護さんもそれはわかっているんじゃないかな。
「子供でもないし、大人でもないなと自分で思ってる。すごく今、アンバランスなんですよ。」
は、こう言い替えられる。
「ずっと大人だったってこと、認めたくないんですよ」
顕在意識では、加護さんは「自分は子供だった」と思っているから、子供から大人への変化を見せなくちゃと思っている。「未成年だったのに喫煙した」という法律違反への反省と更正っていう変化と混ざっちゃってヘンにドライブかかってるように見える。
反省と更正は必要だけど、それと仕事は微妙に別で。
「最初からずっと大人だった」と思えたら、ぜんぜん違ってくるんだろうになぁ、仕事の選び方、ブログの文章、ファンへのスタンス。
加護さんは、子供になりたかった大人。子供になれなかった大人。
今もどこかで「子供」「幼さ」に憧れてる。
そこが切ない。
ナイロン、大人になったな。
麻琴の舞台、北区つかこうへい劇団協力公演。
良質な作品だった。麻琴いい仕事にめぐりあえてよかったね。
高校のバスケ部の話、それから10年後の話。
青春群像もので、女子高生もので、桜の花びらが舞ってしまったら、もう・・・降参です。
開演前に脚本・演出の人が出てきて軽く注意や意気込みなんかを語った。
その人が話し始めた瞬間、あ、これはいい舞台にちがいないとわかった。
語り方に愛があった。自分の仕事への。
愛があれば多少の突っ込みどころ(音楽と終わり方)は気にならないものだ。
愛と言えば、高橋とみっつぃ〜と亀井(たぶん)が来てた。この順番で並んで座ってた。
みっつぃ〜だけキャップなし。あとのふたりは深くかぶってた。
高橋はすぐわかったけど、もうひとりは亀井かもしかしたら消去法でリンリンかも。
でもリンリンはキャップ深くかぶらなそうだからやっぱ亀井かな。
なんだかんだ言って、オーラみたいなもの出てた、三人とも。
みっつぃ〜色白いねー。
「東京アリス」で、麻琴けっこーいいじゃんと思って、確かめたくて出かけた。
そしたらやっぱり、演技もダンスもすごいよかった。俺麻琴のダンス好きだわ。
もう麻琴はミュージカル方向でいけばいいと思うよマジで。
芝居の感想になってないけど、思ったこといくつか。
バスケの試合の前に、娘。の「しょい!」みたいにチームのメンバー全員が片手を伸ばして重ねるシーンがあるのね数回。麻琴はキャプテンだから当然真ん中で。そんで「しょい!」的な声を出して、わーっと試合に臨む。なんかそれ見たら、麻琴がリーダーの娘。っていうのを見てみたかったなとかそんな不思議な気持ちがした。そういう娘。も、この幾重にも重なるパラレルワールドのひとつとしてありえたのかなとか。
めまいのような、そんな感覚。
それから、「リボンの騎士」を思い出した。
「リボンの騎士」の、歌のない役で卒業した麻琴が、いま、こうして、主役で、両脇に他の役者を並べて、真ん中でダンスをすげーカッコよく踊ってる。それを高橋が見てる。後ろから2列目中央で。高橋の表情は見えなかったけど、きっと、高橋だって、いろんな思いが去来したはずだと思う。
話自体も油断すると涙が出そう系だし、いろいろ思ってたらほんと泣きそうになった。
高校生の日本代表候補の有力選手の麻琴が、ケガをして挫折、仲間とのあつれき、協力、憧れられるスター選手としての苦悩、妹との葛藤、自分との葛藤。
「何年も、いっしょにつらい練習耐えてきたんじゃない」
そんなセリフが何度かあって、作り手の意図とはまったく関係なくて申し訳ないけど、
どーしてもモーニング娘。のこと思ってしまう自分がいた。
そしてもしこの芝居を吉澤さんが見たら、、、と思うと。
たぶん考えすぎだし吉澤さんの感受性はもっと深くて大きくて本質をちゃんと見る。だろう。
生きるってこと。仲間ってこと。理解しあうってこと。相手を大切に思うってこと。
桜の花びらのシーンで終わってもよかったんじゃないかな。そこだけ思った。
ともかく、とてもストレートな、良質な作品でした。
これからも、いろんな役者で、いろんな場所で、上演されつづける芝居だと思う。
観終わって、まず、「物足りない」と思った。
ラストでやや強引に、辻褄をあわせるように盛り上がりがあって空腹を満たしてもらったが、派手なデザートでメインの弱さをごまかされた感じ。
芯の部分では演劇的満足感に欠ける芝居だった。
そして、「物足りなさ」を感じた観客の矛先が石川さんに向かってしまうかもと危惧した。
あのコがもっと上手かったら、もっと満足できたはずなのに、と。
違う。むしろ逆だと言いたい。言って回りたい。
石川さんはあの芝居できちんと機能していた、と。
なぜそう思ったのかっていうのを書くために、まず、この芝居の世界観について自分の感じたことを。
ものすごく感情移入しにくくなかった?
登場人物の喜怒哀楽と一緒に気持ちが盛り上がる瞬間がほとんどなかった。
なんでこの人はこの人が好きなのか、どういうふうに好きなのか、とか全然わかんないし、
友情の深さも全然ピンと来なくてただ「友達」って言いあってるだけだったし、
親子の愛情も特に感じられない。だから葛藤が迫ってこない。
これからどうなるんだろう、逃走が成功するのか失敗するのかっていうワクワク感も全然煽られない。煽ってくれない。(俺の観た回で手錠が外れちゃったのが象徴的だった)
どこか遠くの世界の話だった。
そりゃ、芝居なんてたいていどこか遠くの世界の話だけど、おもしろい芝居って観てるうちにそういうの忘れるじゃん。でもこの芝居は最初から最後までどこか遠くの世界のままだった。
感情移入できないのに役者がうまいっていうなんとも言えないもどかしさ。
芝居の世界にもっと入り込みたいのに入り込めない。楽しみたいのに楽しめない。
感動できないのは自分がおかしいのか?
華やかな閉塞感とともに時間は過ぎる。
思えば冒頭の主役の「いいえ、いいえ」がすべてだったのかもしれない。
これから始まる芝居は不本意との戦いですという宣言だった、あれは。
そして確かにすべての登場人物が不本意と戦っていた。冒頭からラストの大転換まで一貫して。
そもそも主役はマランドロなのか?いや、劇作家だ。
芝居という「世界」を支配する者がその崩壊を経て、あのラストシーン、
別のカタチで再び「世界」を得る物語とも言える。
枠組みの崩壊と再生。新たな意味づけ。
これって脱構築ってやつですよねたぶん。80年代後半のかほり。
まさに「逃走論」とか。近代とか支配っていうのもたぶんキーワード。ズバリ20世紀的でしょう。どうせ脱構築を試みるなら21世紀の脱構築はこれだっ!っていうを観せてほしかったよー。
冒頭で、完全なコミュニケーション不全のもと、ひたすら世界との取引を拒否し、
芝居が始まるというのに背中を丸めて心を閉じた主役の男。
労働者として。近代のヒトとして。逃走したくて。
が、幕があがれば。
閉塞と解放。
この芝居のテーマはたぶんこれ。
男の女の娘の父の母の夫婦の労働者の犯罪者のオカマの権力の資本家の戦争の
運動の国家の街角の恋愛の友情の欲望の支配関係の演劇の閉塞と解放の群像劇。
それを脱構築という手法で描きたかったと。
そこに石川梨華を配したと。
ならばもう言うことはないじゃないかアミーゴ。
石川さんは脱構築劇の女神となるべく配されたのだ。
枠組みを壊し、再生するidol。
石川さんがこの芝居できちんと機能していたと書いたのはそのような趣旨で、です。
惜しむらくは作り手が脱構築に徹しきれなかったこと。それがすべて。閉塞感も解放感も優等生的に過ぎた。だから石川さんの機能がわかりにくくなってしまったのだ。
前半は説明臭さを排してもっと暑苦しく息苦しく情動的にするか、あるいはもっともっと平坦に類型的に流すべきだったのでは。そしてラストは客電全開で全員が客席に降りてくるぐらいの破壊と再生がなされてもよかったのではと思った。
壊すなら壊してみようマランドロ。
その時、石川さんは全力の咆哮とエロい身体で本領を発揮するだろう。
世界はそれを待っている。アディオス!
(※千秋楽ではラスト客席に降りてくるとかフツーにありそう)