へケートについて、実は最初、誤解していた。
瀕死のサファイヤの告白を受けて、へケートが膝からくずおれた理由について。
膝をついた瞬間の気持ちについて。
サファイヤが「亜麻色の髪の乙女は私です」と言うのを聴いて、
へケートは自分の計画が頓挫したことを知り、その落胆ゆえに膝をついたのだと思っていた。
「えー、アンタがそれ言っちゃったら、私が亜麻色の髪の乙女になれないじゃんよ」という落胆。
「愛されるより愛する愛、それが愛」と悟るのは、もっと後、人々が葬送を歌い始めてから、だと思っていた。
何回か見て、そのような二段構えの感情の流れになっていると感じられなかったので、
これはやはり誤解で、膝をついた段階で「愛」についての悟りがあったのだろうなと
思うようになった。
でも、いま台本を見たら「魔女へケート、永遠の命の果てに悟る。」とあるのは葬送が
始まってからだった。どうなんだろう。いや、どっちでもいいと言えばいいんだけど、、、
DVDが出たらここはもう一度味わいたい。
「愛されたかった私は愛したサファイヤに負けた」について。
愛において「負けた」のか?
あるいは「私はしあわせ」と死に際して断言できることに「負けた」と感じたのか?
言葉通り受け止めれば前者が正解だと思う。
でも、ちょっとは後者の要素も混ざってるかもしれないなと思った。
「しあわせ」と笑顔で言い切るライバルを前にして放たれる「負けた」というセリフには、悔しさ、情念がこもっているように感じられる。
セリフでも歌でもなく、雄たけび。悟る直前の最後の最後の感情の爆発。
「女」の勝ち負けの感覚のなまなましさが発露したセリフとして
「愛されたかった私は愛したサファイヤに負けた」を聴いてみると思わず身震いしそうになる。
そうして感情を解き放った後にのびやかに歌われる「愛されるより愛する愛、それが
愛と知らなかった」。
これを歌っている時点では、へケートは悟っている。
これまでの長い孤独な時間を振り返り、いとおしむように、新たな気づきに心を震わせている。
爆発と悟り、その起伏のある流れはやがて大河となる雪どけ水のようだ。葬送のコーラスとシンクロし、場を包み、うねり、人々は(私たちは)たどり着くべき場所へ運ばれる。
さて、ここからは妄想なのだが、では、もし、サファイヤが
「亜麻色の髪の乙女は私です」と言わずに死んだら、どうなっていただろう?
たとえば、まぁ、即死だった、とか、あるいは非常に高いモラルのもと、口をつぐんで
死を迎えた、としたら。
へケートは悟っただろうか?
魂を返しただろうか?
へケートはもともとフランツに「勝って」と言っている。
つまり、サファイヤの死を一瞬でも願っていたわけだから、魂は返さなかったかもしれない。
フランツは、何の疑問も抱かず、金貨の汚れを払ったという満足感を得て新しい王として君臨しただろう。そして、へケートは亜麻色の髪の乙女となって、フランツと出会い、王妃になる。
へケートの記憶はどうなるだろう?
神様にもらった魂ではないから、生まれる時もインディーズっていうか、非合法スレスレっていうか、神様に記憶は消してもえらえないだろう。
つまり、へケートは「私は魔女だった、本当の亜麻色の髪の乙女ではない」という秘密を抱えて王妃となる。
誰にも言えない秘密を抱えた王妃に、今度はへケートがなるのだ。
へケートとサファイヤがシンメトリーなだけでなく、へケートと「王妃」(サファイヤの母)までもが「秘密」を通じて一対になる。
そして?
魂の物語は「この子が女の子になり幸せをつかむその日まで」続くのだから、
きっとサファイヤはへケートの前に現れるだろう。へケートの秘密を暴く者として。
そのとき二人はどんなふうに対峙するだろう。そしてフランツは?
物語は無限だ。
リボンの騎士について書いたことをきっかけに、
いくつかのサイト、ブログに紹介していただきました。
大人の強さとデカさと厳しさと甘さ、そして引き出しの奥深さにタメ息でます「身すぎ世すぎ。」さん、
冷静な顔つきの絵と文章に練り込められた熱さがかっこいい「十時課」さん、
そしていつもなんかポータルサイトのように見させていただいている「I believe that 全テ’s 偶然ジャナイ」さん、
へんな検索ワードで紹介しちゃってすみませんでした、の「Re:えんどおーるハイパー」さん、
改めまして、感謝とリスペクトを。もしかしてリンクに登録してしまうかもしれません。
しっかし、リボンの騎士、生写真発売きましたね、ついに。
あー、ハロショで写真買うのってほんと恥ずかしいけどこれは買わねばなあ。