白虎隊の千秋楽、吉澤は疲れているように見えました。
明らかに置きにいってるセリフ。微妙にズレるタイミング。
調子の悪い時のガッタスでの吉澤を見るようなそんな気持ちがしました。
カーテンコールでは、やりきった喜びの表情を見せてくれました。キャストたちの空気もよく、あたたかい気持ちになりました。でも、呂律がまわっていない。挨拶も「どうだ!やってやったぜ」っていう突き抜けた感じはない。受け止めて、返すようなやわらかなもの。そして吉澤は里田に柴田に包まれる。
勝利の剣を太陽にかざすような挨拶ではなかった。剣を鞘におさめるような締めくくり。
「やりきった」という達成感は吉澤の表情にありました。その喜びも。
でも、吉澤は、何を、やりきったんだろう?
吉澤の達成感は、何に対する達成感なのか。
言い換えると、こうです。
この芝居で、吉澤は何と戦っていたのか?
ひとつの仮説を書きます。
この芝居の吉澤は「苦しそう」でした。
なんで「苦しそう」と思ったかというと、やっぱり、演じきれてなかったんですよね、役柄を。役柄に入ってなかった。なんでそう思ったかというと「アドリブ」です。
アドリブには2種類あると思います。
役柄として言うものと、役者として言うもの。
今回、ぜんぶ、後者なんですよね。リボンで「大臣」として麻琴をいじっていたのとは大違いです。この芝居のアドリブはぜんぶ「吉澤ひとみ」として言っていました。フットサルのポーズ然り、メロン云々然り。あれは「斉藤美咲」とは無関係。そして、その「斉藤美咲」と関係ないアドリブ部分で舞台を盛り上げるしかなかった。これは役者としては苦しかったと思います。
象徴的だったのは2日目、長男が飲みながら牛乳を自分のシャツにこぼした時のアドリブ。
吉澤は「衣装、臭くなるよ」って言ったんです。客は笑いました。
メイドなら「衣装」じゃなくて「服」というべきだった。
そして「臭くなりますよ」と言うべきだった。
でも。
「斉藤美咲」としての「服、臭くなりますよ」ではきっと笑いはおきなかったと思う。
牛乳をこぼしながらゴクゴク飲む男を見て、「ステージ上で素に戻ったよっすぃ」が思わずつぶやいた風のアドリブだったから、みんな、笑ったんだと思う。そして吉澤もそれをわかっていた。だから「吉澤ひとみ」として言った。言うしかなかった。
吉澤にもっとスキルがあれば、「斉藤美咲」として笑いのとれるアドリブを開発できたかもしれません。これは吉澤の能力の問題とも言えますが、吉ヲタの贔屓目を差し引いても脚本中の「斉藤美咲」という人物設定の薄さと無縁ではないように思います。
吉澤リーダーのライブのMCが毎回変化に富んで私たちを楽しませてくれたように。
吉澤座長もアドリブで私たちを楽しませようとした。
脚本と演出が稚拙だったから。
脚本と演出に沿っているだけでは観客を楽しませることは無理だと思ったから。
そもそも、デンジマンさんが書いていたように、アドリブがないと成り立たない芝居なんておかしいわけで、吉澤は本来しなくてもいい苦労を背負って(しょって)しまった。
そして、そのアドリブは「斉藤美咲」ではなく常に「吉澤ひとみ」が言うしかなかった。
だから、この芝居における吉澤のエネルギーは、いかに演じるかではなく、いかに両立させるか、に注がれていた、というのが私の見方です。舞台の上で「斉藤美咲」と「吉澤ひとみ」を同居させること。結果的に吉澤に求められていたのはそういうことでした。定型化されたアドリブはもはやアドリブではなく、ただの日替わりのセリフ。吉澤は「斉藤美咲」と「アドリブを楽しむ吉澤ひとみ」の二役をやっていた。一人二役だった、吉澤だけこっそりw
そんなの「芝居」じゃないっすよ。盛り上げるために、主役が役に入り込まないことが必要だったなんて。
結論。
吉澤の達成感は、隠れ一人二役を演じきった達成感だったと思います。
「斉藤美咲」を演じきった達成感ではなく。
そういういびつな負荷と吉澤は戦っていた。
「平成レボリューション〜バックトゥザ・白虎隊」はそういう芝居でした。
疲れないわけはないです。
心からお疲れさまと言いたいです。