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観終わって、まず、「物足りない」と思った。
ラストでやや強引に、辻褄をあわせるように盛り上がりがあって空腹を満たしてもらったが、派手なデザートでメインの弱さをごまかされた感じ。
芯の部分では演劇的満足感に欠ける芝居だった。
そして、「物足りなさ」を感じた観客の矛先が石川さんに向かってしまうかもと危惧した。
あのコがもっと上手かったら、もっと満足できたはずなのに、と。
違う。むしろ逆だと言いたい。言って回りたい。
石川さんはあの芝居できちんと機能していた、と。
なぜそう思ったのかっていうのを書くために、まず、この芝居の世界観について自分の感じたことを。
ものすごく感情移入しにくくなかった?
登場人物の喜怒哀楽と一緒に気持ちが盛り上がる瞬間がほとんどなかった。
なんでこの人はこの人が好きなのか、どういうふうに好きなのか、とか全然わかんないし、
友情の深さも全然ピンと来なくてただ「友達」って言いあってるだけだったし、
親子の愛情も特に感じられない。だから葛藤が迫ってこない。
これからどうなるんだろう、逃走が成功するのか失敗するのかっていうワクワク感も全然煽られない。煽ってくれない。(俺の観た回で手錠が外れちゃったのが象徴的だった)
どこか遠くの世界の話だった。
そりゃ、芝居なんてたいていどこか遠くの世界の話だけど、おもしろい芝居って観てるうちにそういうの忘れるじゃん。でもこの芝居は最初から最後までどこか遠くの世界のままだった。
感情移入できないのに役者がうまいっていうなんとも言えないもどかしさ。
芝居の世界にもっと入り込みたいのに入り込めない。楽しみたいのに楽しめない。
感動できないのは自分がおかしいのか?
華やかな閉塞感とともに時間は過ぎる。
思えば冒頭の主役の「いいえ、いいえ」がすべてだったのかもしれない。
これから始まる芝居は不本意との戦いですという宣言だった、あれは。
そして確かにすべての登場人物が不本意と戦っていた。冒頭からラストの大転換まで一貫して。
そもそも主役はマランドロなのか?いや、劇作家だ。
芝居という「世界」を支配する者がその崩壊を経て、あのラストシーン、
別のカタチで再び「世界」を得る物語とも言える。
枠組みの崩壊と再生。新たな意味づけ。
これって脱構築ってやつですよねたぶん。80年代後半のかほり。
まさに「逃走論」とか。近代とか支配っていうのもたぶんキーワード。ズバリ20世紀的でしょう。どうせ脱構築を試みるなら21世紀の脱構築はこれだっ!っていうを観せてほしかったよー。
冒頭で、完全なコミュニケーション不全のもと、ひたすら世界との取引を拒否し、
芝居が始まるというのに背中を丸めて心を閉じた主役の男。
労働者として。近代のヒトとして。逃走したくて。
が、幕があがれば。
閉塞と解放。
この芝居のテーマはたぶんこれ。
男の女の娘の父の母の夫婦の労働者の犯罪者のオカマの権力の資本家の戦争の
運動の国家の街角の恋愛の友情の欲望の支配関係の演劇の閉塞と解放の群像劇。
それを脱構築という手法で描きたかったと。
そこに石川梨華を配したと。
ならばもう言うことはないじゃないかアミーゴ。
石川さんは脱構築劇の女神となるべく配されたのだ。
枠組みを壊し、再生するidol。
石川さんがこの芝居できちんと機能していたと書いたのはそのような趣旨で、です。
惜しむらくは作り手が脱構築に徹しきれなかったこと。それがすべて。閉塞感も解放感も優等生的に過ぎた。だから石川さんの機能がわかりにくくなってしまったのだ。
前半は説明臭さを排してもっと暑苦しく息苦しく情動的にするか、あるいはもっともっと平坦に類型的に流すべきだったのでは。そしてラストは客電全開で全員が客席に降りてくるぐらいの破壊と再生がなされてもよかったのではと思った。
壊すなら壊してみようマランドロ。
その時、石川さんは全力の咆哮とエロい身体で本領を発揮するだろう。
世界はそれを待っている。アディオス!
(※千秋楽ではラスト客席に降りてくるとかフツーにありそう)
満天☆青空レストランを見て、運命を感じた。
冷凍庫にひとつかみだけ残った俺の梨華もろこし。
その最後の料理が決まった。
じゃあああああああん!
スポンサー様に敬意を表して当該ビールとともにいただく。、
冷凍しておいたもろこしのヒゲがうっすらと見えています。
そして酔ったイキオイで、かぼちゃもちに挑戦。あれ?手が勝手に!
吉澤さんが汗を流しながらじゅうじゅう焼けてます。
美白よっすぃ。ここでやめておけばよかったのだが、つい、
もずくっちぃ。夏ですな。
ヤンタンとMステと自転車駅伝。
吉澤さんはキレキレだった。
今の吉澤さんはまわりが見えてる。すごく見えてる。
野球選手ならボールが止まって見えるレベルに心身ともに絶好調。
この3つの番組で見逃せないのは、吉澤の、誰かを守るための行動。
そしてそれは吉澤のヨユーと自信から来てるってこと。
愛と献身。ヨユーと自信。
私はこれを「吉澤ひとみの騎士道」と名付けたい。
まず、ヤンタン。
「石川胸あんのか?Dカップぐらいあんのか?Cとか?」とさんまに尋ねられて、
「い、言いませんよ」と石川が若干マジで引いてたとき、
石川の様子を笑いながらも岡田の胸の話で助け舟を出すあたり見事としか言いようがなかった。
さんまも吉澤が案外扱いやすいと感じたらしく吉澤にけっこう話を振る。
こんなにもさんまに引いてない吉澤さんは初めてでは。
しかも、さんまのネタふりに、なんでですか的に単純に返すのではなく、
いちど受け止めて、ふくらましてから返してたことに驚いた。
( `ш´)<180ccでも入れたら?
(0^〜^)<180ccどんなもんなんですかね?
( `ш´)<はるな愛ちゃんで260
(0^〜^)<何カップあがりますかねぇ2カップぐらいあがるんですかねぇ
なんというヨユー。
吉澤がさんまをあまり怖がっていない感じがした。前はもっと話しにくそうにしてた気が。
ったく男ってしょーがねーなという空気すら漂っているのは、きっとおっさんと付き合っているからだとしつこく思ったりするがそれは騎士道とは別の話なのでここで深追いはしない。
言いたいのは、困っている仲間を救うためにさりげなく吉澤の言葉が放たれたという事実。
Mステ。
ミニステで、後ろを通る出演者のためにさっとしゃがんだところ、まわりが見えてるなぁ、と感心した。そしてカメラ目線のすっきり感。なんなんだろう。あの日の悲しみトワイライトとは違う、、、、どう違う?張り詰め方が違う。強さよりもしなやかさ、のびやかさ。それは、自分のためじゃなく他者のための出演だったから。自分よりも若い、守りたい存在への想いがこの日の吉澤を動かし、輝かせていたのだと思う。それもまた騎士道と言ってしまいたい。
そして自転車駅伝。
他のペアは何回か前後を入れ替えて走っていたのに、
中澤吉澤組はずっと吉澤が前だった、当たり前のように。
その当たり前っぷりが騎士だった。
鈴鹿峠の会話。
从#~∀~#从<待って、あの坂なに〜(悲鳴)
从#~∀~#从<どこまであがるー?(もう降りて自転車押したい)
(0^〜^)<どこまであがりますかねぇ?(野原で寝ころんでいるようなのんびり声)
从#~∀~#从<どこまであがる?(必死に問い詰める)
(0^〜^)<どこまであがります?(花でも摘んでいるようなのんびり声)
从#~∀~#从<どこまでいくっ?(苦しいから手短に叫ぶ)
この言い方で中澤の限界を感知した吉澤は無言でキュッと自転車を停めた。
吉澤もキツいはずなのに、超のどかな声。萌えた。
強がり、気遣い、フォアザチーム、士気、鼓舞、波動、下から包み込む、計算された声。
カッケーよ吉澤。
そして感動したのは最後、ゴール直後ヘトヘトのはずなのに笑顔でかました、あのひとこと。
(0^〜^)<第2弾どこ行きます?
从#~∀~#从<うええええええっ(のけぞり)
笑いを取って、番組全体がいい感じに終わった。
こう言われてスタッフだってうれしかったと思う。
まわりが見えて落ち着いてる。ヨユーのよっちゃん。
同期、後輩、先輩。
それぞれに吉澤の愛と献身が見れてうれしかった。
吉澤はつくづく関係性の人だなぁと思う。関係性の中で輝く。そして、基本的には受け身の人だと思う。
自分が真ん中に出るために動いて輝くのではない。
何かがあって、それを受け止めて、行動する。他者を、チームを、助けるために。
そこに彼女の強さが現れる。その強さが輝きになる。吉澤さんはそういう人だ。
話は変わるが、吉澤さんのコンプレックスって何だろ。
( `ш´)<ちっちゃいほうが、あの、感度がええやんか絶対。
(0^〜^)<わかんないですよw
( `ш´)<吉澤おまえちょっと気にすんなよこいつ笑ろてるけどなぁ(←ショージのこと)
(0^〜^)<だいじょぶですよw
( `ш´)<かわいそうに、上から
(0^〜^)<いや、確かに
( `ш´)<いちばんのコンプレックスや!
(0`〜´)<コンプレックスじゃないです!
「いや、確かに」の続きで感度について語りそうだったのにさんまの声とかぶってしまって
広がらなかったのは痛恨だが、ええと、そうじゃなくて、このやりとりからコンプレックスについて考えた。
見た目も運動神経も身長も性格も字も耳もうなじも手相もすべてが美しい吉澤さんに
果たしてコンプレックスはあるのか?
フツーに考えて、ない、皆無、なわけだが、でも、なんか、ありそうじゃん。
単純に自信満々って人とは違う何か繊細なものがあるじゃん吉澤には。
もしあるとすれば受け身的なトコロかなぁと思ったりした。
能動的じゃないところ。
ハングリー精神がないところ。
あ、だからハングリーが好きなのか。
バレーも娘。も自分で選んでやっていたことではあるが、
たとえばオーディションや部活や仕事選びは能動的か受動的かと言うと、両方の側面がある。
応募自体は能動だが、最終的には、選ばれて、応じる、という受け身的な状況になるから。
そーゆーところで吉澤はいまいち自分の能動性を確信できなかったのではないか。
もとの控え目な、執着の薄い性格もあって。
そして、それが、今、新たな局面を迎えてる気がする。
最近はマラソンに関心があると。
5キロという数字に皇居一周とすぐ反応するあたり、けっこーマジぽい。
球技が他者との関係性ベースの競技だとしたら
マラソンは自分との対話ベースの競技のように思う。もちろん他者とのかけひきはありつつ。
自分との対話がいちばんむずかしいもんねー。
吉澤は走ることで、何かをついに変革しつつあるのかも。
つか、今までが自信なさすぎだったんだと思う。
あんなにきれーなのに。あんなに性格いいのに。あんなに気遣いができるのに。あんなに字がきれいなのに。あんなに運動神経いいのに。あぁあああああ、何なんだろう、この微妙に苦しい感じ。
自分が何を好きなのかってことだよね。
好きなものをわかってるかどうか。マイケルの番組見てそう思った。
ヨユーと自信は己を知ることから。だ。
走り始めた自分と、世界。
吉澤には今それがとてもよく見えているのだと思う。